(この記事は2019年10月、当サイトブログに掲載されていたものです)
1961年、香港。ダンスホールでマナーの悪い英国水兵をたたきのめしたブルース・リーが今度は香港警察に追われる身となる。その警察も英国人だった。もう50年以上前の映画とはいえ、今の香港は宗主国であった英国がこの都市を統治する当時と変わっていないように思える。
10月4日、香港政府は行政長官の権限であらゆる規則を適用できる「緊急状況規則条例*¹」を発動した。これにより、デモ参加者が顔を隠すのを禁じる覆面禁止規則が翌日から施行された。緊急条例は立法会(議会)の手続きを経ずに規則を定める異例のもので、この条例の適用は英国統治の1967年以来のことで実に52年ぶりとなる。
緊急状況規則条例は植民地時代の1922年に制定されたもので、香港総督が公共の安全に危険が及ぶ緊急事態と判断した場合に立法局の同意なしに規制するものであった。半世紀以上前に適用された当時、世界は東西冷戦の最中であり、インドシナではベトナム戦争が起きていた。中国では文化大革命の影響が香港にもおよび、反英暴動(六七暴動)が勃発した。最初は小さな労働争議で始まったが、緊張は大規模なデモに拡大し、英国の植民地支配に反対する左翼運動の高まりに発展したのである。この時、3万人程度のデモとはいえ、当時の人口(372万人)からみて英国の統治を揺るがす大事件であったことは間違いない。
この条例には言論統制、通信規制、通商・貿易の制限など14項目の適用条項があり、その中には財産の没収まで含まれている。さらに「行政長官にとって規制の目的のために必要または適切とみなされる付随的な規則を定めることができる」と付記されている。今回の覆面禁止条項は、おそらくこれを根拠にしているのだろう。いわゆる行政の裁量権を残した条文であり、罰金5,000ドルおよび懲役2年が略式判決で課せられることになる*²。
映画の展開は、ブルース・リーが米国での出生証明書をもとにサンフランシスコに渡り、そこでいろいろな格闘技が展開されることだった。今回の香港騒動でも星条旗を掲げる者が現れ、米中首脳会談では香港問題が取り上げられるようになった。香港は昔も今も米国の影がちらつく。一国二制度として返還された香港、中国本土との共存を探る道はもう一度原点に立ち返って考える時だろう。
水野 通雄(みずの みちお)
*¹ 原語は「緊急情況規例條例 Emergency Regulations Ordinance」、タイトルはTo confer on the Chief Executive in Council power to make regulations on occasions of emergency or public danger
*² 電子版香港法例参照 https://www.elegislation.gov.hk/hk/cap241!en?INDEX_CS=N&pmc=0&xpid=ID_1438402882315_001&m=0&pm=1